本名:田中 晃。
愛媛県今治市出身。同志社大学文学部中退。愛媛県県松山市のデザイン会社でデザイナー、プランナーとして働き、その後田窪工業所で宣伝課長をつとめました。
在籍中に本名を隠して『やきとり天国』(メイドインしまなみ事務局)を出版。それから土井中照のペンネームを使っています。しまなみ海道開通を控えた時期のため、音楽、出版、イベントのメディアミックスにより、『やきとり天国』は話題を集め、4000部を売り切りました。ただし、この出版社は印刷会社だったため、商業出版といえるほど、本格的なものではありませんでした。

松山の出版社から『松山城の秘密』を出版。2002年にフリーライターとして独立し、地方出版でありながら1万部を越すベストセラーになりました。
その後は、四国にまつわる歴史と文化の豊富な知識を活かし、執筆のみならず商品開発、ウェブサイト作成、CD制作、講演、テレビ・ラジオ出演など活動は多岐にわたり、地元メディアから「愛媛の雑学王」とも呼ばれています。
 その豊富な知識は、2021年4月11日13:05から放送されたNHK松山放送局開局80年記念番組「タイムトリップQuiz バトルE80」でも生かされ、地元出版社社長、郷土文化研究家とともに組んだチームは、他チームに70点以上の差をつけますが、最後の質問が逆転を誘う点数で行われたために、2位で終わりました。

全国のやきとり有名地との連携と発展を試みた「全国やきとり連絡協議会」の初代事務局長に就任し、現在はやきとり文化研究所所長。
民俗文化、食文化、明治時代の文芸などの研究も続けています。


土井中照(本名:田中晃)は、今治市で縫製工場を営む田中孝久の次男として生まれました。兄弟には3人の姉がいて、長男は僕の生まれる前に腸炎で死亡。明治生まれの父親が45歳の時の子供でしたので、僕は甘やかされて育ったと思います。
幼い頃から絵を描くのが得意で、小学校時代から絵のコンクールでさまざまな賞を得ています。また、授業も熱心に聞かないのに勉強はよくできる方で、学校ではふざけてばかり。ただ生来の運動音痴でしたから、運動会の時は静かにしていますが、文化祭などの出し物には積極的に参加しました。
中学校の時には落語を始め、ラジオのオーディションを受けますが、落選。有志を集めて、学校で創作劇を上演するなど、ユニークな小・中学校時代を過ごしました。

高校は進学校に中の上の成績で入りましたが、今までのように遊び呆けていたら下から数えた方が早い成績となり、これではいけないと一念奮起。数学に時間がかけられないので、それは無視して勉強すると、3教科では上位の成績となったのですが、数学が赤点ばかりなので国立は望めません。それで志望校を私立大学の文学部に定めます。
結局、青山学院大学と中央大学、同志社大学の各文学部に合格し、そのなかから同志社大学進学を選びました。

大学に入ったのですが、その自由さに溺れてしまい、バイト生活に明け暮れます。
3回生の時に、バイト先の人から話を持ちかけられ、21歳でスナックを経営することになりました。ただ、スペースが小さいので、あまり儲けにはつながりません。しかし、その時に京都の美味しいものを食べ歩いたおかげで、「食通」だと自慢できるようになりました。

しかし、大学卒業時に悪い事が重なります。大学の卒業は見込みがつかず、家からは厳しい叱責。そしてスナックは騙されて人手に。その時に進行していたコンサートで大赤字となり、今まで付き合っていた女性からは見事に振られてしました。
今まで順風満帆のエリート街道(?)を歩んでいた僕は、このさまざまなトラブルに耐えられなくなり、一時、ノイローゼになってしまいます。

大学を途中でやめて家に帰ってきた僕は、廃人同然でした。自分を最低の人間だと思う、ひどいうつ状態に陥り、あらぬことを喋りだす始末。
半年ほどで、不安定な状態はようやく治まりました。働かなければならないので、親戚の会社に入れてもらいますが、自信のなさから今までとは段違いに低いレベルの能力しか発揮できなくなっていました。

自分の能力を再確認し、自信を取り戻すために、パルコが主催する展覧会に応募します。すると、それが佳作入選。審査員の糸井重里氏は、『ゴクー』という雑誌の寸評で、僕の作品を取り上げ「題材を選ぶセンスがいい」と褒めてくれました。

これによって自信をつけた僕は、コピーライター、プランナーとして松山のデザイン会社に就職します。そこで学んだ多くのことが、今でも役に立っています。何も知らない僕を育ててくれた、その会社の人々に、深く感謝しています。

僕は、30歳前に独立して、自分の会社を興しました。広告代理店とのコネもあり、独立当初から松山にあったラフォーレなどの広告をやらせてもらい、そこそこ稼いで家を買ったら、なぜか急に注文が入らなくなりました。いくらあがいても、以前のような注文は来ず、結局、最初の嫁さんとは離婚してしまいます。

今治に帰った僕は、子供たちの養育費を支払うために収入の不安定なフリーランスを諦め、プランニングを求めていたタオル会社に入社。リゾート開発を考えていたその会社は、大三島での開発を考えていました。僕は、中央の会社とタオル会社のコーディネイターとして、プラン作成のお手伝いをします。「水軍」をテーマとしたリゾート施設となる予定でしたが、地元の会社が土地を自分のものにしようとしたところから提携にヒビが入り、宙に浮いてしまったのです。僕は今までの仕事から一転して、社内での縫製部門の責任者となります。自分の思っているところと全く違うセクションに戸惑って、すっかりやる気をなくしていました。

転職を考えた僕は、日本全国を相手にしている金属加工メーカーの宣伝セクションに入ります。約3年で課長代理となり、5年目にはその部門の責任者となりました。会社の仕事の他にもやりたいことがいくつもあります。

僕は、まもなく開通されるしまなみ海道に便乗して、地元では少しも注目されていない今治のソウルフード「やきとり」をテーマとする本を出版しようと思い立ちます。
会社に迷惑をかけてはいけないので、朝の4時に起きて、2時間を執筆にあてました。そして会社が終わったらやきとりの食べ歩き。これで体重は10kg増えてしまいます。また、マーケティングはお手の物ですから、地元の人々からアンケートをとって、テーマを充実させました。約半年かけて、本をほぼ完成となりました。

ここで広告屋の血が騒ぎ出します。テーマソングをつくるために知り合いに声をかけ、商店街の協力を仰いで、やきとり日本一宣言の街をアピール。顔が割れてはいけないと思い、新しくもらった嫁さん手作りのニワトリの面をかぶって、ことなきを得ました。
「本の出版」「テーマソング」「イベント開催(マスコミへのパブリシティ)」という僕が行った3つの方法は、食をテーマにしたまちづくりの定番となりました。

その後、いくつかの本を書き、松山の出版社から本を出す際、テレビと新聞に声をかけたついでに本名を披露したところ、会長の逆鱗に触れてしまい、退社せざるを得なくなります。今ではこのようなことはないと思いますが、当時の風潮はこうだったのです。子供たちへの養育費の支払いが終わってたので、退社への踏ん切りがつきやすかったのかもしれません。

その時に出した『松山城の秘密』という本は、地方としては珍しい1万部突破のベストセラー。その後に出した本もコンスタントに売れてゆきました。ただし、自由を得た代償として、収入はサラリーマン時代の半分に落ち込みましたが……。

作家としての成功から10年ほどが過ぎると時代はネット時代を迎え、求められる情報の質が変わってきました。本の内容も大きく変わります。今までのように初版を3000部出版するというわけにはゆきません。僕の出す本も、出版賞などで大きな評価を得るのですが、売れ行きは次第に衰えていきました。

還暦を迎えた途端、大腸ガンが見つかりました。これも、今まで過ごしてきた暴飲暴食のツケが回ってきたのだと思います。腸内の腫瘍は4〜5センチもある巨大なものでしたが、腸壁を超えておらず、ステージ2と診断されました。不幸中の幸いです。2週間ほどの入院で腫瘍を削除し、あとは酒を断って健康な生活に徹しました。

それから4年後、今度は「脳梗塞」に罹ります。急に右半身が動かなくなり、救急車で運ばれた結果、「一過性脳虚血症」という診断で、そのうちに脳梗塞が起こる可能性があるというのです。2週間ほど薬を飲んでいたら、急に目の前が真っ暗になって倒れてしまいました。MRIを受けたのですが、細い血管のために位置はわからないが脳梗塞といわれました。これも後遺症はほとんどなく、現在は血をサラサラにする薬を続けています。

身体には、若干の不随運動が残っているのですが、今ではおおむね健康体になりました。
すると不思議なもので、歳はとっていても、まだまだ頑張れるかもしれないと思い始めるようになったのです。幾つになっても、人間って不思議ですね。
最後の頑張りのカタチが、今回の電子書籍出版です。僕が一生懸命にならざるを得ない理由がここにあるのです。